私の60年・私の80代

2015年03月02日 18:23


 「私の六十年」(CDキャラバンへ)


幾年月がありまして と言ってみよう

六十何年かが夢のように確かにある

十年一昔 一昔ずつ スパッと筒切りにして

切り分ける

堆積された断層をみるように

どんな化石が現れるか

何を食べ どんな成長をしてきたか

何が原因でこの萎縮か

と 細部まで発掘 突き止めたいと

もろい部分に執着し 丹念に作業にとりかかる


樹木の年輪をみるように

南も北も確かにあって

岩も砂礫も空洞も 支え合っての六十年の

歩みである

さあこれから どれほどの堆積をみ 断層を

重ね 珍しい化石を掘り出すことが出来るか

今 六つの断層を大皿に盛って

地質学者のように 考古学者のように

そして 陶芸家のように

腕まくりをして 視つめている


まず 第一断層を別皿に取り

幼児用食器に盛ってみる

ねっとり愛に包まれた

触れば柔らかいペースト状で

語れるほどの一片もなく

耳を傾向けると

ランドセルの鳴る音がする


第二の層は物心つく十代で

暗い戦争ありました とマネてみて

コーリャンご飯も食べました

うらなりカボチャのすいとんも

さつま芋の昼食もありました

それでも田舎 ひもじい思いもたいしたことなく

近くの飛行場爆撃はありましたが

家を焼かれることもなく

逃げ惑う恐ろしさにも合わず

その内敗戦 悲しむ祖父を横目でいぶかり

今日から 灯りの漏れる心配も

夜中に飛び起きる空襲もない

敗戦をこっそり喜ぶ少女でありました


物不足 ないないづくしの中で

心は満たされていて

父母に祖父母に兄妹弟 甥と

大家族の 中吹く風など 一向に感じず

のびのび十代は流れて行きました


第三は二十代の固まりで

これはいろいろありました

発掘作業 仕分け作業は大変です

見られたくない化石も混じっていましょう

豊かな思いにくるまれて

眠り続ける 悔いや おきてや

アミダクジを引くように

それでも運命は平等に

失うものと得るものを与えられ


さて四層目は三十代

あるがままを受け止めて

あるがままに満足して

それでおまえはいいのか と

どこかでそんな声がして

忘れ物はないか

幸せにとっぷりつかって何も見ないで

悔いはないか

そんな声にせかされて

子等を見つめて過ぎました


四十代の断層は

三十代とそう変わりなく

少し荒目で 小さい空洞も ぽつぽつあって

やがて子ばなれ親ばなれ

遠くを歩く子らの安全を

無力に祈るだけでした


五十代 まだまだ 掘り返すには早過ぎる

さてこれからが大変です

六十代の始まりです 転勤族

故郷恋しいと帰ったものの

四十年の空白は 田舎もすっかり変わり

新しい立派な道路と家とで

記憶はどこかで迷子になって

故郷で迷子になって

昔の友は今いずこ 想い出の道

懐かしい景色は どこに・・ととまどい

其れでも日々は 坂道を転がる様に過ぎて行きます


あと二つ空の皿を用意して

ゆとりを持って盛り付ける日を考えている

最後の皿を盛ったならば

一つ一つ膝に乗せ 羽根箒でやさしく

想い出を解いてみたいと

どんな思いが化石になり

どんな言葉が光っているか

どんな安堵が住んでいて

どんな種が埋もれているか

どんな完璧な断念が用意されて

六十代 七十代 八十代と

これらを別誂えの皿に盛り

地質学者のように考古学者のように

陶芸家のように腕まくりして みている


楽しい思い出 化石が溢れていて

自慢の花の種々を子や孫に残すことが出来たらと

これから積もる断層を砂絵のように積み上げて

などと夢見る 六十代の花ざかり

と 言い切ってみたい 今なのです


化石を象嵌飾った骨壺を撫でて夢見る

――やがて陶芸家で有りました

(以上が20年前書いたものです。)


私の80代

「 私の八十代」(CDキャラバン)

故郷の海を恋う ――やがて詩人――

               市川 つた

六〇代になったとき「私の六〇年」

――やがて陶芸家――と詩に書いた)

八〇代に入って続きの三〇年を加える

六〇代を振り返るとまだまだ元気

先も十分あると人生を楽しんでいた

何処へでも出かけたし 痛手を負うほどの

もの忘れも 方向音痴もなく過ごせた

だがどこかで「生きているか 生きているか」と

声が絶えず聞こえてきて

刻の速さと格闘して敗れていた


七〇代になると

朝を迎え何事もなく夜に入る日々

七〇代が粛々と降り積もり

過去が降り積もり

雪のように音を消して降り積もり

静寂な時間が置いてきぼりになる


八〇代体力気力衰え それでも縋りついて

自然の凋落を白い闇の中に見詰めている

この坂は転げて行くのか躓いて立ち竦むのか 

辺りを窺っている 

あれもこれも遣りかけで 

あれもこれも手付かずで 

闊歩は遠く後姿で梨畑の脇道を曲がっていった

せめて押し寄せる波に足を洗わせながら

沢山の魚群を追う

故郷は思い出すところ 追うほど遠退いてゆく


海が私を向かい入れ 私の中で生きづいている

あのころテトラポットはなく

地引網を引く逞しく焼けた腕があった

防風林の松林は続き 浜昼顔は砂に這い

薄紅色の追憶を惜しげなく広げていた

九〇歳まで生きようと 足萎えの日々を励まして

運転免許も捨てずパソコンにも取りついて

少なくなった楽しみや狭まった行動範囲を補う


言葉に導かれる現代詩の作詩法に頭を砕き  

抽象に反発し受け入れ 解けぬ作品を片寄せ

抽象 心象 比喩も暗喩も抱きかかえ

難しい詩にはそっぽを向き 

広く深い日本の言葉がきっとある 

そんな言葉を愛し 詩作してゆきたいと願う

八〇代である


六〇代 我が骨壺を作る陶芸家になると

美しく幻の骨壺を抱いた

七〇代 園芸家になって一輪でもいい

小さくても赤い花を咲かせてみたいと

自分に誇れるだけでいい

わたしの庭が明るんで

秋空の澄んだ空気の中 園芸家を夢見た   

 

九〇代 画家になって

追求する自分を置いてみる

シャガール 空飛ぶ私を描いてみる

ロウランサン 光を呼び込んで私の庭は桃源郷

故郷の海を恋う

――やがて九〇歳の詩人である―― 


あと「90才の私」をかけたらいいと今から思っている。

読んで頂いてありがとう。以上